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印西大師12 印西大師の創設者である南陽院にお参り

押付薬師堂と南陽院は直線距離にして300mほどしか離れていない。ところが、明治ルートではその間に2ヶ所の札所、3ヶ所の番外札所を巡拝して、距離合計は二十丁(約2km)近くに達している。当時の水路や堤防がいまとは違ったのかもしれない。

今回は、押付薬師堂から南陽院まで最短距離を歩く。現在、水路にかかっている橋を渡るとすぐである。

南陽院は江戸時代はじめにはすでにこの場所にあったが、現在もご住職の家がすぐそばに建っている。本埜村はニュータウンで様変わりしたが、このあたりは古くからの姿がそのまま残っている。

江戸時代から変わったことといえば、ニュータウン計画よりも、昭和に入って行われた印旛沼治水事業と、ウルグアイラウンドの農水省事業の影響が大きい。それらにより、水路がまっすぐに整備され、水田も大規模に区画整理された。

それ以前は、洪水と干ばつのどちらかが襲うという、あまり恵まれていない地域であった。だから、江戸時代の南陽院のご住職が、何とか農民を救う手立てはないかと悩んで、お大師様を思いついたのである。

ただ、当時は学校がないので、お坊さんといえども日本史や宗教を体系立てて教わった訳ではなかった。もちろん本や新聞、テレビ・ラジオ、インターネットもない。基本的に、知識のある人から直接聞くしかない。

だから、この地区の本山である泉倉寺に、「お大師様をお祀りしたらどうでしょう」と相談したところが、「われわれは天台宗だし、お大師様は真言宗。真言宗のお寺に仁義を切らなくてはまずかろう」ということになったのである。

真言宗のお寺は旧印西町、旧本埜村にはなくて、旧印旛村の師戸に広福寺、平賀に来福寺がある。これらのお寺に快諾を得て、南陽院とこの2つのお寺が印西大師の幹事役(結願寺)となっている。

さて、その南陽院の札所は、本堂の右に置かれている。さすがに創設寺だけあって、大師堂は他の札所より大きいが、それでも中に座ってお勤めするほど大きくはない。さすがに、天台宗でそこまでやったらまずいのかもしれない。

天台宗の最澄と真言宗の空海は、同じ遣唐使で唐に渡って修業したが、最澄は留学僧の筆頭格、空海はその他大勢で末席に連なるだけだった。そのためか、帰国後に最澄が仏典の貸し出しを空海に頼んだところ、「書物は月を指し示す指にすぎない」と断ったことがある。

南陽院から印西大師が始まったことを記念する「新四国霊場勧請記念碑」も、四十四番札所と並んで建てられている。宗旨の違いはあれ、文化文政時代から昭和時代まで、長くこの地域を代表する行事であった。

さて、南陽院の次は、明治ルートでは笠神のいくつかの札所を巡拝するが、昔の名前と現在の名前が違うので順路がよく分からない。笠神青年館、笠神社、表前観音堂、向公民館の前にあるのが番外札所と思われるので、お参りする。

それらのお堂と比べても、七十一番辻の堂は小さい。何しろ、共同墓地の一角で、道路からは木の陰になって見えないのである。四国七十一番は四国の死者が集まる弥谷寺だが、何か共通する要素があると考えられたのだろうか。

そして、辻の堂と南陽院の間に、明治ルートでは原ノ堂という八十二番札所が置かれていた。現在は、遠く白井の長楽寺に遷されているが、その経緯がはっきりしない。

笠神集落に多すぎるので調整したのか、あるいは印西大師が盛んになったから白井町に広げたのか、地元だから南陽院に聞けば分かるだろうけれど。

(この項続く)

p.s. 「千葉ニュータウンの四季」、バックナンバーはこちら。「四国札所歩き遍路」のバックナンバーはこちら

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南陽院は、押付薬師堂向かいの丘の中腹にある。こちらの江戸時代の住職である臨唱法印が印西大師を始めた。

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四十四番札所。八十八の半分ということで四十四番にしたという。後ろに見える碑は新四国霊場勧請記念碑。

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七十一番辻堂は共同墓地の中、わかりにくい場所にある。旧八十三番原ノ堂も同じような立地だったのだろうか。

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5年前にリタイア、気ままな年金生活を送っています。

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