印西大師9 小林駅近くの東大寺、馬場の堂と光明寺に巡拝
- 2022/05/29
- 05:15
地蔵堂から昨日迎えに来てもらった鳴沢セブンイレブンに出て、ここから平岡東大寺に向かう。前日予定していたルートである。
東大寺にお参りしたことはないが、お散歩コースである平岡斎場のすぐ近くで、歩いたことが何度もある。中は結構広くて、本堂と薬師堂、札所がある。札所は本堂の左手、横に長く、格子なしに2体のお大師様がいらっしゃる。
左に二十二番、右に二十八番のプレートが貼られている。四国二十二番は平等寺、二十八番は大日寺である。明治ルートでは二十二番は東大寺、二十八番は東大寺大日堂と記されており、当時いくつかの塔頭があったらしい。
境内の掲示板に、「東大寺と呼べるのは奈良とここだけ」みたいなことが書いてある。南都東大寺は華厳宗でここは天台宗、あちらは聖武天皇が総国分寺として建てたお寺だから違うような気もするが、信仰にどうこう言うことはない。いったん荒廃して、江戸時代に再建されたという。
お参りを終えると9時50分、出発から2時間経過。ここまでは前日の計画だったから、見込んだとおり約2時間の遅れということになる。東大寺から坂を下りて、低い場所に出る。ここは、江戸時代には将監川の流域だった。現在では、洪水の心配のない水田地帯となっている。
成田線に沿って小林駅近くまで移動する。次の三十七番馬場の堂は、小林鳥見神社の近くにある。毎年初詣にお参りする神社で、お散歩コースでもある。共同墓地とたくさんの石碑、隣には集会所と少年野球のグラウンドがある。
鳥見神社は「とみ」とも「とりみ」とも読むようだが、もともと古い地名の「とみがおか」から発生したもので、「とみ」が本来のようである。旧印西町・旧本埜村にたいへん多い。旧印旛村になると、宗像(むなかた)神社が多くなる。
四国三十七番は五社で、現在は窪川岩本寺だが江戸時代は高岡神社が札所であった。ご詠歌の額は見当たらないが、きれいに手入れされている小堂である。
鳥見神社の境内にもよく似た小堂が置かれているし、立地的にもほぼ一体といっていい。江戸時代には鳥見神社の中にあったが、神仏分離でわざわざ分けて作ったのかもしれない。だとすると、四国三十七番とよく似た札所ということになる。
馬場の堂から小林駅に向かって下りて行く途中に、八十一番光明寺がある。古いお墓が多いので、この地区の菩提寺だったのだろう。いまでは小林駅近辺に大型の墓地が開発され、いくつか寺も作られているが、大正時代の地図を見ると、ここと馬場の堂、次の西福寺くらいしか卍マークは見当たらない。
札所は、本堂近くではなく墓地の中にある。四国八十一番は白峯寺。崇徳上皇絡みでお四国では重要なお寺だが、ご詠歌の額は特に見当たらない。
光明寺の墓地から林の中の道を入ると、南弘防帰國稲荷神社がある。本殿と社務所があり、幟がたくさん立っている。由緒書きには、江戸時代の天海僧正の南光坊にちなんで名前を替えたと書かれている。なぜか字が違うし、「帰国」というのも不思議な名前だ。
明治ルートでは、光明寺の次に七十七番虚空蔵堂があった。そのあたりは、現在は小林の住宅街となっているので、開発されてなくなってしまったものと思われる。いま七十七番は、三十三番師戸広福寺が併せてお祀りしている。
住宅街の中に、中世に小林城のあった場所があり、いまもそう書かれた杭が残っている。城山公園という。経路や距離がぴったりなので、もしかすると城山公園として整備された周辺に虚空蔵堂があったのだろうか。
城山公園から直進して切り通しを過ぎた交差点付近に、お地蔵様を祀った小堂がある。切り通しは開発時に道路を作るため行われたもので、明治時代は山全体が小林城だった。あるいはこのお堂も虚空蔵堂の名残りかもしれない。

平岡東大寺まで歩く。ここまでは前日の予定で、お参りしたのは10時、ちょうど2時間の遅れであった。本堂左の小堂が札所。

三十七番馬場の堂、平岡鳥見神社の近くで、隣に少年野球のグランドや集会所、共同墓地がある。後ろの畑には菜の花が満開。

八十一番光明寺。天台宗のお寺である。小林駅周辺には近年いくつかの霊園とともにお寺ができたが、大正時代の地図にはこちらと西福寺くらいしか卍マークは見当たらない。
東大寺にお参りしたことはないが、お散歩コースである平岡斎場のすぐ近くで、歩いたことが何度もある。中は結構広くて、本堂と薬師堂、札所がある。札所は本堂の左手、横に長く、格子なしに2体のお大師様がいらっしゃる。
左に二十二番、右に二十八番のプレートが貼られている。四国二十二番は平等寺、二十八番は大日寺である。明治ルートでは二十二番は東大寺、二十八番は東大寺大日堂と記されており、当時いくつかの塔頭があったらしい。
境内の掲示板に、「東大寺と呼べるのは奈良とここだけ」みたいなことが書いてある。南都東大寺は華厳宗でここは天台宗、あちらは聖武天皇が総国分寺として建てたお寺だから違うような気もするが、信仰にどうこう言うことはない。いったん荒廃して、江戸時代に再建されたという。
お参りを終えると9時50分、出発から2時間経過。ここまでは前日の計画だったから、見込んだとおり約2時間の遅れということになる。東大寺から坂を下りて、低い場所に出る。ここは、江戸時代には将監川の流域だった。現在では、洪水の心配のない水田地帯となっている。
成田線に沿って小林駅近くまで移動する。次の三十七番馬場の堂は、小林鳥見神社の近くにある。毎年初詣にお参りする神社で、お散歩コースでもある。共同墓地とたくさんの石碑、隣には集会所と少年野球のグラウンドがある。
鳥見神社は「とみ」とも「とりみ」とも読むようだが、もともと古い地名の「とみがおか」から発生したもので、「とみ」が本来のようである。旧印西町・旧本埜村にたいへん多い。旧印旛村になると、宗像(むなかた)神社が多くなる。
四国三十七番は五社で、現在は窪川岩本寺だが江戸時代は高岡神社が札所であった。ご詠歌の額は見当たらないが、きれいに手入れされている小堂である。
鳥見神社の境内にもよく似た小堂が置かれているし、立地的にもほぼ一体といっていい。江戸時代には鳥見神社の中にあったが、神仏分離でわざわざ分けて作ったのかもしれない。だとすると、四国三十七番とよく似た札所ということになる。
馬場の堂から小林駅に向かって下りて行く途中に、八十一番光明寺がある。古いお墓が多いので、この地区の菩提寺だったのだろう。いまでは小林駅近辺に大型の墓地が開発され、いくつか寺も作られているが、大正時代の地図を見ると、ここと馬場の堂、次の西福寺くらいしか卍マークは見当たらない。
札所は、本堂近くではなく墓地の中にある。四国八十一番は白峯寺。崇徳上皇絡みでお四国では重要なお寺だが、ご詠歌の額は特に見当たらない。
光明寺の墓地から林の中の道を入ると、南弘防帰國稲荷神社がある。本殿と社務所があり、幟がたくさん立っている。由緒書きには、江戸時代の天海僧正の南光坊にちなんで名前を替えたと書かれている。なぜか字が違うし、「帰国」というのも不思議な名前だ。
明治ルートでは、光明寺の次に七十七番虚空蔵堂があった。そのあたりは、現在は小林の住宅街となっているので、開発されてなくなってしまったものと思われる。いま七十七番は、三十三番師戸広福寺が併せてお祀りしている。
住宅街の中に、中世に小林城のあった場所があり、いまもそう書かれた杭が残っている。城山公園という。経路や距離がぴったりなので、もしかすると城山公園として整備された周辺に虚空蔵堂があったのだろうか。
城山公園から直進して切り通しを過ぎた交差点付近に、お地蔵様を祀った小堂がある。切り通しは開発時に道路を作るため行われたもので、明治時代は山全体が小林城だった。あるいはこのお堂も虚空蔵堂の名残りかもしれない。

平岡東大寺まで歩く。ここまでは前日の予定で、お参りしたのは10時、ちょうど2時間の遅れであった。本堂左の小堂が札所。

三十七番馬場の堂、平岡鳥見神社の近くで、隣に少年野球のグランドや集会所、共同墓地がある。後ろの畑には菜の花が満開。

八十一番光明寺。天台宗のお寺である。小林駅周辺には近年いくつかの霊園とともにお寺ができたが、大正時代の地図にはこちらと西福寺くらいしか卍マークは見当たらない。