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難台山城と小田五郎碑は建武六百年記念事業 難台山・愛宕山(後編)

難台山頂から下りてすぐ、100mほどのところに難台山城址への下り口がある。登ってきた道からそれて、そちらに向かってみた。

いきなりの急傾斜である。難台山の頂上部は台地になっていると書いたが、そこから先はこれまでの尾根道より急だ。登山道は狭く、これまでのように整備されたハイキングコースではない。地盤も滑りやすく、一度派手に尻もちをついたほどである。

12~13分、おそらく標高差で100mほど下りてきたあたりだろう。「城址内通路→」の立て札が立っている。案内に従って進んでみたけれど城があったような平地は見当たらず、頂上台地と同様の奇岩が斜面に並ぶだけである。

すぐに崖になって進めなくなり、登山道に合流する。難台山城の由来を書いた手書きの看板が地面に置かれていたので、ここが難台山城に違いない。かなり、イメージと違った。(同じ文面が書かれたちゃんとした案内板が、もう少し下にあった。)

南北朝期の山城としては、すぐ近くに宝篋山城がある。こちらは、山頂部分に城郭や空堀の跡があり、スペース的にも建物がいくつか建てられるスペースのある場所であった(現在も、アンテナ塔やトイレ、ベンチのある広場がある)。しかし、難台山城にはそういうスペースすらないのである。

歩きながら、これでは城ではなく隠れ家だなあと思った。隠れ家にしたところで、加波山事件の舞台である加波山本宮社務所よりもさらに狭く、とても百人単位が立てこもれる場所ではない。

難台山城址からさらに10分ほど下り、林道が始まるあたりに「小田五郎碑」があった。笹藪の中、最近誰も手入れしていなさそうな場所に、高さ3mほどの大きな石碑がある。建てられたのは昭和九年、上の看板にも、県の史跡指定が昭和九年と書いてあった。

昭和九年といえば、第二次大戦に向かって日本国中が軍国化しつつあった時期である。当時、南朝正統論が声高に叫ばれており、難台山城もその一環としてクローズアップされたのではないだろうか。

後から調べてみると果たしてそのとおりであった。昭和九年は西暦1934年で、「一部の軍人・神職・歴史家などにより、後醍醐天皇と南朝の忠臣の功績を顕彰する建武中興六百年記念事業が全国各地において挙行され」たということである。

小田五郎が難台山城に立てこもったのは1387年というから、南北朝合一の5年前である。後醍醐天皇や足利尊氏はとっくに世を去り、楠木正成も北畠親房ももちろんいない。小田五郎には幕府や関東公方に反逆する意思はあっただろうが、南朝と連携するつもりまであったとは考えにくいところである。

何よりも、難台山城にそれほどの人数が立てこもれるはずがなく、「南朝最後の激戦」とは言いにくい。関東公方vs豪族の構図では当地を舞台とした50年後の結城合戦が知られるが、こちらの城攻めは結城合戦絵巻が残されていて、かなりのスケール差がある。

おそらく、軍国化の中で何が何でも南朝、何が何でも反室町幕府ということで、昔の人達が無理して探してきた城跡であり事件であったのではないか。当時、岩間町長はじめ千人が参列して小田五郎追弔祭が挙行されたという。

小田五郎碑から少し戻り、集落への近道を下って行く。道はずいぶんきちんとしてきたが、それでも結構な急傾斜である。もう一度林道と合流すると道幅が広くなるが、人里へはまだ遠い。

人家が見えてきたのはこの間通った太陽光発電施設の近く、団子石峠から下る林道と合流するあたりだった。ここまで難台山頂から1時間10分かかった。

参考資料:「小田五郎挙兵難台城址追弔碑について」 笠間市史研究員 萩野谷洋子(広報かさま令和2年2月号)

(この項続く)

p.s. 「中高年の山歩き」、バックナンバーはこちら


難台山城址を歩くけれども、奇岩が並ぶだけで平らな場所がほとんどない。城跡というより隠れ家だったのではと思った。


城址から相当下り、小田五郎追弔碑からもかなり歩いてようやく案内看板に到達。


麓から見た難台山(右の峰)。難台山城は山頂からかなり下った場所にあり、下からは見えなかっただろう。

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