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兼好法師「徒然草」

昔、受験の頃は「吉田兼好」と覚えたものだが、兼好の時代にはまだ吉田姓は使われておらず「卜部」だったので、いまは兼好法師が作者ということになっているらしい。いずれにしても、通読したのは今回はじめてである。

試験勉強ではないので、現代語訳を読んで気になるところは原文を当たるという体力節約的な通読である。探してみると、現代語訳は内田樹先生がなさっている。ユダヤ語訳をしている先生なので勘どころはつかんでいるとしても、畑違いで大変だっただろう。

それはともかく、兼好法師の正体はよく分からない点が多い。吉田神道の吉田兼倶が先祖だと主張しているので吉田家の先祖である卜部氏であると思われることと、従五位蔵人という位階があること、勅撰和歌集に何首も選ばれているので公家であることは確かと思われるが、「徒然草」自体が兼好法師の死後まとめられたものなので、確かなことは不明である。

ただ、通読してみると、いくつか気になることがある。まず、全体に順不同であり、同じような内容が違う場所で何度も出てくるということである。ということは、本人が一時に書いたというよりも、誰かが後からまとめた可能性が大きいように思う。そして、後から追加していったので、現在ある形になったのではないか。

その意味では、生前に交流があった今川了俊(今川義元の先祖)が、兼好法師の弟子に集めさせたという俗説は、疑わしいとされているが結構真相に近いのかもしれない。了俊には経済力があり、そういう手間暇をかけるだけの余裕があったからである。(今川氏は代々東海地区の守護大名で、文化には造詣が深い家系である。)

公家とはいっても、卜部氏は神祇をつかさどる家系であり、藤原氏ではないのでいわゆる上流貴族ではない。だから京都生まれ京都育ちとは限らず、金沢文庫(もともと鎌倉執権北条氏のコレクションである)に「うらべのかねよし」の動向を伝える資料が残っていることから、何らかの形で鎌倉に縁故があったらしい。

それを裏付けるように、「徒然草」の中には鎌倉幕府、特に北条氏の人物についての記事が多い。兼好の生きた時代は鎌倉末から南北朝の時代である。幕府滅亡とともに一族自刃した北条氏に関して好意的な記事を残すことは、南朝はもちろん北朝にとっても面白くなかったはずだが、太平記もそうであるように価値観が多様化していた時代なのだろう。

神祇官の家柄とはいえ、勤めは藤原氏の使用人的位置づけであった。兼好が勤めていた蔵人も藤原氏出身の姫が入内したことに伴うもので、天皇や上皇(院)に直接仕えるものではない。そのせいもあり早くから出家したようで、神道に関する記述は少ない。

半分近くを占めるのは宮中におけるさまざまの故事来歴やしきたりに関することである。兼好の博識が示されるが、その知識が生かされるのは上級貴族へのアドバイスに際してだけであって、おそらくそうしたことへの不満があったのだろう。

「知っていることでも知らない顔をしていた方がいい」、「財などあってもムダなだけだ」、「老いたらいつまでも第一線にいるべきではない」などなど、兼好の人生観は徒然草の中に繰り返し語られる。

「つれづれなるままに」で始まる冒頭の文章は、「あやしうものぐるほしけれ」で終わる。物苦しいとは強い表現で「ある坊さんが念願の石清水八幡宮にお参りしたが、男山の麓まで行って帰ってきた」とか「田圃の中で地蔵様を洗っている人がいた。誰かと思ったら昔の大臣だった」なんて話が物苦しいとは思えない。なぜなんだろうと思っていた。

おそらく、書いていると昔のいろいろなことが思い出され、いたたまれない気持ちになったのだろう。いくら知識があっても、身分の壁があるのでこれ以上の出世は望めない。それを考えると、質素で堅実な武士の生活がうらやましいという気持ちが、行間からにじみ出ているように思うのである。

長くなったので、来週もう少し。

(この項続く)

p.s. 1970~80年代少女コミックス等、書評いろいろあります。バックナンバーはこちら


最近出た現代語訳は、内田樹先生が訳されてます。ユダヤ語訳もなさっているので、勘どころは押えているに思います。カップリングの高橋源一郎「方丈記」はちょっと・・・。

プロフィール

taipa

Author:taipa
3年前にリタイア、気ままなリタイア生活を送っています。
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