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茨城県にもこういう尾根道があったのだ 宝篋山(中編)

そんなことを思いながら沢沿いに登って行くと、30分ちょっとでベンチのある場所に出た。「くずしろの滝」と立て札がある。滝というよりも岩の上に流れがあるといった小さなものであるが、そんなに高い山でもないのに、結構な水量がある。

くずしろの滝から宝篋山まで1時間とガイドマップにある。とりあえず目指すのは尖浅間山である。滑りやすい急坂をスイッチバックしていくと、そんなに苦労せずに「尖浅間山まで50m」の地点に着いた。標高320mだから房総と同じくらい。筑波山の800mと比べるとかなり楽である。

尖浅間山(とがりせんげんやま)には石積みの上に山名標があり、平らに広がった頂上にはテーブルとベンチがある。まだ休んでいる人はいないが、登ってきた人達と挨拶した。みなさん私同様シニアの単独行である。

さて、宝篋山といい尖浅間といい、登山道のコース名になっている極楽寺、常願寺といい、いずれも神仏にちなんだ命名である。というのは、麓にある小田城近くに真言律宗の拠点があったことによるものである。

真言律宗はその名の示す通り、真言宗と律宗の性格を併せ持つもので、教義としては真言宗に近い一方、戒律を重んじる律宗の再興という側面をもっていた。西大寺の叡尊を宗祖とし、叡尊の弟子である忍性が鎌倉幕府の後援を得てこの地を拠点とした。

鎌倉時代には大きな勢力を有し、例の日蓮四箇格言のうち「律国賊」というのは、真言律宗を指したものといわれる。そして、日蓮と確執があったとされる忍性の銅像が、宝篋山頂に建立されている。布教と併せて社会福祉・弱者救済に力を注いだ僧である。

忍性はここを拠点として布教したが、後に執権北条氏の援護のもと鎌倉に拠点・極楽寺を移した。極楽寺の周囲には、病人・老人・困窮者などを保護する施設として、施薬院・療病院・悲田院などが置かれたという。

鎌倉時代はすでに遠く、小田城も遺構を残すのみであり、真言律宗の大拠点がどこにあったか定かでない。とはいえ、寺の名前はいまだに山や谷の地名として残っているのだ。

尖浅間山から宝篋山までの稜線には、電子国土では1ヵ所小ピークが見えるだけだが、実際にはもっと小ピークがあり、登り下りが続く。とはいえ、房総の尾根道のようなきついアップダウンはなく、ゆるやかな遊歩道である。

標高にすると300~400mでも、こうしたおだやかな尾根道を歩けるとは、茨城県の山もなかなか奥が深い。時折、樹間から麓の景色が望める。足下には、いくつかの池が見える。灌漑用のものという。利根川・小貝川も近く、つくばねの峰より落つる男女の川(桜川)もあるのに、やっぱり広く田を開くには水の手はあるに越したことはないのである。

快適なアップダウンを歩いていくと、やがて峠地形が見えてくる。まだアンテナは見えないが、すでに宝篋山頂直下のようだ。木々の中には山桜も含まれていて、散った花びらが登山道にかぶさっていた。ところどころにベンチとテーブルが置かれ、ここで休んでいるグループもあった。なるほど、駐車場が満杯になる訳である。

ベンチのある広場を過ぎると城の中心部に至る道を分け、左手にバイオトイレが見えてくる。大きなアンテナ塔があってここまで車道が通じているのだから水道があってもいいような気がするが、ないようである。

バイオトイレから先は最後の急坂だが、ここから登山道と並行して車道も通っている。カーブを曲がるとアンテナ塔が正面に建ち、その左手に山名の由来となった宝篋印塔が見えてきた。

宝篋印塔の前には、手水場の代わりに手洗い車が置いてある。石を回して手を清めるということだろう。現在のものはそれほど古いものではないが、すぐ横に年季の入った石造りの残骸がある。おそらく江戸時代よりもっと古いものだろう。

(この項続く)

p.s. 「中高年の山歩き」バックナンバーはこちら


1時間ほどで尖浅間山に到着。木のテーブルとベンチが置かれている。


尖浅間山から宝篋山まで、茨城県にもこういう尾根道があるのだと思わせる遊歩道である。


宝篋山頂にはアンテナ塔の建物の横に、山名の由来となった大きな宝篋印塔が置かれている。鎌倉時代のものという。

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taipa

Author:taipa
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