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明智憲三郎「本能寺の変シリーズ」

明智光秀の子孫が書いた本能寺の変の真相というと、話題優先というか、宣伝文句でとりあえず売ってしまおう的な本かと思った。だからこれまで読まなかったのだが、実際読んでみると内容はいたってまともである。

著者が明智の子孫だから公開されていない伝承があるのかというと、そういうものはない。著者自身は「歴史捜査」と呼んでいるが、普通に史料を評価して、より事実に近いのは何かを考察している。

だから、著者が明智の子孫であるとか言わずに、本能寺の変の真相は教科書に書いてあることとは違うでよかったような気がするが、きっとそれでは出版社が動かなかったのだろう。

さて、著者が指摘する史料評価でもっとも重要なのは以下の2点である。

① 教科書的な「本能寺の変」の理解は、「惟任退治記」や、これをもとにした「川角太閤記」「甫庵太閤記」の記載が出発点となっている。これらは秀吉に都合がいいように、いわば宣伝用として作られたもので、史実として信用できるものではない。

➁ 太田牛一の「信長公記」も、完成したのは豊臣政権下であり、牛一自身も秀吉傘下に組み込まれたのである程度割り引いて考える必要がある。もっとも信用できるのは、イエズス会が本国に報告した内容である。

だから著者の考察は、イエズス会や彼らから情報を得たスペイン商人の証言を最重要視し、「信長公記」や公家の日記を傍証としている。その結果はネタバレになるが、本能寺の変は信長が徳川家康を討つために計られた陰謀だったとする。

よく知られるように、明智軍の兵士は「信長様の指示により家康を討つ」と思って本能寺を攻めた。これはたまたま勘違いしたのではなく、もともとそういう計画だったのではないか。

そう考えると、本能寺の警備が手薄だったのも、中国攻めに出陣したはずの明智軍がやすやすと京に戻ってこれたのも納得できる。もともと信長の指示でそうしたのだから、光秀は謀反を気づかれるおそれはなかったのである。

実際、本能寺の変のあった6月2日の夕刻には、家康一行は本能寺に入る予定であった。彼らは、武田軍をせん滅したことを表彰されて安土城で接待を受け、京・堺の見物をした後、挨拶に本能寺を訪れる予定であった。

つまり、明智軍は京に入るまで仮に誰かに見られても信長の指示だといえる状況で、本能寺を囲む時間が1日早まっただけであった。軍の行動は同じで、光秀は「討つのは家康でなく信長」と言うだけだから、決断を知らせるのが直前でも少数でも問題はなかったのである。

長くなったので続きは明日。

(この項続く)

p.s. 書評過去記事のまとめページはこちら。1970年代少女マンガの記事もあります。

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明智光秀の子孫が本能寺の変の真相を語るというと宣伝っぽいが、内容はいたってまともである。シリーズが何冊かあるが、ほぼ同じ内容。

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