白樺金剛からはシロヤシオ 黒岩尾根五禅頂修業道(その3)
- 2023/07/13
- 05:15
稚児ヶ墓を過ぎてもしばらく張り出した笹原の道が続く。少しずつ標高を上げていくと、やがて林の中から出ていきなり景色が広がる。これまで麓からずっと見通しがきかなかっただけに、2時間ぶりに胸がすく思いである。
左手に男体山が顔を見せた。山裾に見える駐車場は明智平だろうか。中禅寺湖は見えないが、街並みが見えるのは中宮祠に違いない。
水場の案内標識のあたりが、修験道の拝所であった寂光石という場所である。笹原の中に巨岩があるということだが、残念ながらどれがその岩なのかよく分からなかった。水は十分あるので水場には寄らず先を急ぐ。
再び林の中に入る。引き続き周囲は笹原である。ササの中に石碑が現れた。水呑碑である。「安永九」年と江戸時代の日付が彫ってある(1780年、240年前だ)。水場から結構距離があるのに「水呑」とは妙だが、近くに水が出るような場所はない。
水呑碑から少し登ると、林の中から白いものが見えてくる。稚児ヶ墓の下からしばらくアカヤシオが続いたが、ここからはシロヤシオである。少しだけアカヤシオが混ざっているけれども、ほとんどシロヤシオでこちらも満開である。
そのシロヤシオの咲いている下に、白樺金剛の真新しい案内標識と石の祠がある。「白樺金剛」とは、このあたりに白樺があったことから名付けられたもので、もともとの拝所の名前は「若多」という。
白樺金剛からは比較的木々がまばらになる。進行方向左側は景色が開け、沢に下る広大な斜面が望める。モッコ平というらしい。
右側は樹間から赤薙山から丸山にかけての稜線がのぞいている。左右の林の一番前には、シロヤシオが植わっている。きちんと並んでいるので、植樹されたものだろうか。
シロヤシオを見ながら、ゆるやかな傾斜が少しずつ急になる。林を抜けると、いきなり岩場である。路面状況がまったく変わるから戸惑う。ひと登りすると、頭上に十字架の形をした標識が見えてきた。八風である。
標識の字が見える側に立つと、目の前が180度開けている絶景である。はるかに見えるのは日光市街。今朝あそこから出発したのかと思うと感慨無量である。右手には中宮祠から男体山。やはり中禅寺湖は見えない。
現在の八風は黒岩の麓付近にあるが、かつての拝所である八風はもっと下だったらしい。だから、修験者達が昼食をとった場所も岩の上ではなく、シロヤシオあたりの傾斜が緩くなった場所のようだ。
ではなぜ「八風」の標識が現在の場所に立っているかというと、お墓のあったお稚児さん伝説によるのである。お稚児さんが転落したのは八風という言い伝えだが、転落するような場所はここまで登らないとない。
シロヤシオのあたりも、登山道をずっと離れると分からないが、基本的に歩けるところは足場もしっかりしているし切り立った場所もない。ところが八風標識からは一転して岩場となり、滑ったら数百m転がってもおかしくないような斜面である。
八風の下まではいかにも日光らしい登山道なのだが、八風を越えるとまるで尾瀬の燧ヶ岳である。ここまで赤テープだったのが、岩に黄色いペンキの丸とか矢印に変わる。
そしてその先は、まるで男体山の薙のトラバースのようなガレ場・ザレ場の連続である。しかも、いま通過している黒岩は一部だけが薙ではなく、山体ほとんどが薙なのだ。
(この項続く)
p.s. 「中高年の山歩き」バックナンバーはこちら。軽量化工事直後なので、不具合あればご容赦ください。

ここまではアカヤシオだったが、白樺金剛あたりからはシロヤシオが現れる。

八風の標識が立つのは黒岩の岩場に入るあたり。遠く日光市街、右に中宮祠を望む絶景である。

ここからはガレ場とザレ場が続く。男体山でいうところの薙のトラバースがしばらく続く難所だ。
左手に男体山が顔を見せた。山裾に見える駐車場は明智平だろうか。中禅寺湖は見えないが、街並みが見えるのは中宮祠に違いない。
水場の案内標識のあたりが、修験道の拝所であった寂光石という場所である。笹原の中に巨岩があるということだが、残念ながらどれがその岩なのかよく分からなかった。水は十分あるので水場には寄らず先を急ぐ。
再び林の中に入る。引き続き周囲は笹原である。ササの中に石碑が現れた。水呑碑である。「安永九」年と江戸時代の日付が彫ってある(1780年、240年前だ)。水場から結構距離があるのに「水呑」とは妙だが、近くに水が出るような場所はない。
水呑碑から少し登ると、林の中から白いものが見えてくる。稚児ヶ墓の下からしばらくアカヤシオが続いたが、ここからはシロヤシオである。少しだけアカヤシオが混ざっているけれども、ほとんどシロヤシオでこちらも満開である。
そのシロヤシオの咲いている下に、白樺金剛の真新しい案内標識と石の祠がある。「白樺金剛」とは、このあたりに白樺があったことから名付けられたもので、もともとの拝所の名前は「若多」という。
白樺金剛からは比較的木々がまばらになる。進行方向左側は景色が開け、沢に下る広大な斜面が望める。モッコ平というらしい。
右側は樹間から赤薙山から丸山にかけての稜線がのぞいている。左右の林の一番前には、シロヤシオが植わっている。きちんと並んでいるので、植樹されたものだろうか。
シロヤシオを見ながら、ゆるやかな傾斜が少しずつ急になる。林を抜けると、いきなり岩場である。路面状況がまったく変わるから戸惑う。ひと登りすると、頭上に十字架の形をした標識が見えてきた。八風である。
標識の字が見える側に立つと、目の前が180度開けている絶景である。はるかに見えるのは日光市街。今朝あそこから出発したのかと思うと感慨無量である。右手には中宮祠から男体山。やはり中禅寺湖は見えない。
現在の八風は黒岩の麓付近にあるが、かつての拝所である八風はもっと下だったらしい。だから、修験者達が昼食をとった場所も岩の上ではなく、シロヤシオあたりの傾斜が緩くなった場所のようだ。
ではなぜ「八風」の標識が現在の場所に立っているかというと、お墓のあったお稚児さん伝説によるのである。お稚児さんが転落したのは八風という言い伝えだが、転落するような場所はここまで登らないとない。
シロヤシオのあたりも、登山道をずっと離れると分からないが、基本的に歩けるところは足場もしっかりしているし切り立った場所もない。ところが八風標識からは一転して岩場となり、滑ったら数百m転がってもおかしくないような斜面である。
八風の下まではいかにも日光らしい登山道なのだが、八風を越えるとまるで尾瀬の燧ヶ岳である。ここまで赤テープだったのが、岩に黄色いペンキの丸とか矢印に変わる。
そしてその先は、まるで男体山の薙のトラバースのようなガレ場・ザレ場の連続である。しかも、いま通過している黒岩は一部だけが薙ではなく、山体ほとんどが薙なのだ。
(この項続く)
p.s. 「中高年の山歩き」バックナンバーはこちら。軽量化工事直後なので、不具合あればご容赦ください。

ここまではアカヤシオだったが、白樺金剛あたりからはシロヤシオが現れる。

八風の標識が立つのは黒岩の岩場に入るあたり。遠く日光市街、右に中宮祠を望む絶景である。

ここからはガレ場とザレ場が続く。男体山でいうところの薙のトラバースがしばらく続く難所だ。