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角田文衛「待賢門院璋子の生涯」

鳥羽天皇の中宮になってからも待賢門院は「法皇の愛人」が主業務であったようで、年のうち半分は院の御所に戻っていたことが確認できる。(ちなみに、院はすでに60~70代だが、他にも愛人がいた)

しかも、生理期間中は内裏にいて、終わると院の御所に戻るということを繰り返していた(普通は逆)。そういう時、何ヶ所も御所のある白河法皇も必ず戻ってきているので、貴族の日記にもご寵愛が過ぎるみたいに書かれてしまうのである。

そもそも中宮になる前、鳥羽天皇のもとに入内するにあたっても世間(といっても高級貴族)は好感を持っていなかった。「乱行で不可思議な人を入内させるとは、日本第一の奇怪事」と関白・藤原忠実が日記に書いているくらいである。

もともと法皇は養女である璋子の縁談を忠実の息子に持って行ったが、忠実がこれを固辞した。理由は明らかにされていないが、この記事をみる限り璋子の素行が大きかったことが窺われる。

しかし、独身の男女の関係がそこまで問題視されるだろうかと著者は考察する。忠実自身、人の妻に手を出したりしているのである。ここまで口を極めて非難するということは、男女関係にそこまで潔癖でなくても、認めがたいことではなかったのか。

おそらくそれは、養女という義理の親子にもかかわらず実は愛人であるということが一点、それは自分の家に縁談が来たら断るレベルで済ませるとしても、孫である天皇の中宮にするのは倫理に反すると感じたのではないだろうか。

だから、この少し後で平家が台頭し、さらに鎌倉幕府ができて武家に政権が移ったことについて、「武士の時代となったのは、天皇家の不倫に原因がある」と書かれることにもなったのである。

もう一つ、待賢門院の略歴をみて考えさせられるのは、白河法皇の養女になる前、もともとの家系が閑院流であることである。閑院流は道長の父・兼家の弟である公季の子孫で、家格としては摂関家に及ばない。

しかしこの時代、にわかに注目を集め、皇室とも摂関家とも婚姻関係を結べるようになる。その大きな理由が、摂関家に冷遇された後三条天皇の后で、白河法皇を産んだ女性が閑院流だったことである。

白河法皇だけでなく、鳥羽天皇の母も閑院流で、待賢門院とは母方のいとこにあたる。こうした色濃い近親結婚のためか、待賢門院の産んだ6人の皇子女のうち2人に障害があり、幼いうちに亡くなっている。

そして閑院流からは代々の乳母が選ばれて、天皇にとってたいへん身近な存在であった。加えて、姻戚から何人かの養子を迎えているのだが、彼らを白河法皇の男色相手とすることで出世の糸口を握ったのである。

ここで最初のジャニーさんに結びつく訳だが、それはそれとして、なぜゲイの血が淘汰されず現代まで残っているのかということである。ゲイは子孫を残しづらいはずなのに。

有力な理論の一つが、ゲイの男は子孫を残しづらいものの、ゲイ血統の女性がそれを補うほど多産だからというものである。

待賢門院の生涯について読みながら、本筋とはあまり関係ないそんなことを考えていた。ちなみに、著者の角田博士在世中にはそういう知見はまだなかったので、そんなことは書いてない。

p.s. 書評過去記事のまとめページはこちら。1970年代少女マンガの記事もあります。

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待賢門院については、どちらかというと興味本位的な取り上げられ方がされていて、きちんと証拠を当たって分析したものは多くない。ところがこの本は、半世紀前の分析にもかかわらずいまだにリーダブルである。

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7年前にリタイア、気ままな年金生活を送っています。

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