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角田文衛「待賢門院璋子の生涯」

ジャニーさんが事務所の若い男の子に片っ端から手を付けていた事件が報道されている(NHKや民放はガン無視)。だからという訳ではないが、白河法皇について調べたくなった。

白河法皇は平安末期の天皇で、摂関家の勢力後退によって絶大な権力を握った。意のままにならないのは「鴨川の水、サイコロの目、比叡山の僧兵」だけと豪語し、「自分ほど権力のある天皇はかつていなかった」と自画自賛したことも有名である。

70代後半まで長生きし、その間男女問わずやたらと手を出したこともよく知られる。待賢門院はそういう女性の一人で、法皇の養女で孫の鳥羽天皇の中宮でありながら、法皇の愛人という関係を続けたとされる。

この本は昭和四十九年の初版で、図書館でもすでに処分済みか書庫にしまわれていることが多い。とはいえ、内容はなかなか興味深い。それは噂話ではなく、実際あったことだと検証している。

著者は大阪市大教授から平安美術館館長。平安時代研究の専門家で、2008年に亡くなっている。皇室のご先祖にあたる方をここまで書いていいのだろうかと思うが、従四位勲三等瑞宝章をいただいているので問題なかったのだろう。

「これは興味本位ではなく、保元の乱はじめ重大な結果を招いたことから、立ち入った詮索をせざるを得ない」と著者は述べている。それにしても、待賢門院の生理周期から入内前の評判、入内後の行動を細かく分析しているのは、恐れ入るばかりである。

約千年前のことではあるが、当時の貴族の日記がかなりの数残されており、それらにより綿密な分析が可能となる。崇徳天皇が産まれた260~270日前の元栄元年(1118年)9月、待賢門院(当時中宮)は里に下がっており、中宮は法皇の養女だから院の御所にいた。そして、あちこち出回って落ち着かない白河法皇が、この時は御所に戻っていたのである。

現代であれば、誕生の260~270日前が受胎日の可能性が高いという知識があるが、平安時代にはそういう知見はなかった。だからバレないと思った訳ではないだろうが、そうはいかなかった。

というのは、中宮が法皇の御所から戻って間もなく、穢れにより(死体の一部が発見されたらしい)内裏全体が潔斎に入ったのである。その結果、鳥羽天皇と中宮の接触はこの時期にはなかったと考えられるのである。

にもかかわらず中宮が懐妊したものだから、さすがの鳥羽天皇もおかしいと思った。だから、十月後に産まれた皇子のことを鳥羽天皇は「叔父子」と呼んだ。名目上は子であるが実際は叔父であるという意味である。

この時代、現役の天皇よりも上皇(法皇)に権力があった。摂関はじめ諸大臣すべて法皇の味方であり、加えて祖父でもある。逆らったところで誰か別の人物を天皇にされるだけであり、逆らわなかったが実際そうなった。

法皇から、五歳(満年齢だと3歳)になったばかりの「叔父子」に譲位することを指示されたのである。新しい天皇は、のちに崇徳院と呼ばれることになる。

長くなったので続きは明日。

(この項続く)

p.s. 書評過去記事のまとめページはこちら。1970年代少女マンガの記事もあります。

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待賢門院については、どちらかというと興味本位的な取り上げられ方がされていて、きちんと証拠を当たって分析した研究は多くない。ところがこの本は、半世紀前の分析にもかかわらずいまだにリーダブルである。

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