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印西大師50 歓喜院と発作最勝寺

白幡吉祥院からは、車の音がする方に歩くと木下街道である。来るときはずいぶん山の中に入ったような気がしたが、出るときはすぐである。木下街道を松山下公園に向かって下りて行く。歓喜院は街道沿いに案内があるのですぐ分かる。

名前からして、ガネーシャの彫刻でもあるのではないかと思わせるが(お四国ではいくつか見かける)、至って普通のお寺さんである。境内はそう広くないが、本堂も札所も整っている。

札所の大師堂は横長で、前の庇が突き出ているのが特徴的である。格子にもガラス(アクリル?)がはめ込まれていて、お大師様が風雨にさらされないようになっている。印西札所では珍しいことである。

こちらには八十八番が振られている。和泉集落の一番泉倉寺まですぐだし、おそらく南陽院の臨唱住職はここで一周という趣旨だったのだろう。みんな天台宗なので、仲が良かったのかもしれない。

さて、明治ルートでは歓喜院からすぐ光堂ではなく、番外札所の発作(ほっさく)・最勝寺に向かう。光堂へは裏道を通れば1kmないくらいであるが、わざわざ3~4km遠回りすることになる。

さて、この発作・最勝寺には興味深いことがある。発作集落自体は新田で、江戸時代後半になってできたので、江戸中期の印西八十八ヶ所選定の際にまだ集落はなかった。

その後集落ができ、巡拝のルートに組み込まれたのは旧印西町・本埜村の新田地域と同様なのだが、こちらの札所にはなぜか三十五番のご詠歌が掲げられているのである。

四国三十五番は清滝寺。土佐市の山の中腹で境内に滝が落ちているお寺で、あまり共通点はないように思える。現在の三十五番は中根にある東漸寺。こちらは三十五番と四十五番のダブル札所である。

明治ルートですでにそうだったということは、江戸時代に旧三十五番はなくなったということである。その際、それならこちらにということで、もともと最勝寺にという話だったのではないだろうか。

中根地区としては、うちにあったものはよそには渡せないということで、おそらく南陽院としてもご近所に無理は言えず、結局東漸寺が2つの札所を兼ねることになったのかもしれない。

ちなみに、中根地区というのは伝統的に「うるさい」集落だったようで、東漸寺境内には、中根新田はうちに権利があったのに飛行場に取られたが、裁判の結果取り戻すことができたみたいなことを書いた記念碑が立っている。「境内に入ると防犯カメラ」の寺も中根集落である。

時が流れて21世紀の現在、東漸寺も最勝寺も寺としては残っておらず、集会所に寺の表札がかかっているのも同じである(最勝寺で法事があるときは、泉倉寺の住職が来ると聞いた)。結果的に痛み分けということである。

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いよいよ印西の中心に近づく。八十八番歓喜院は木下街道に案内看板が出ているので分かりやすい。

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歓喜院札所。八十八番だから、もともとここが終点だったのだろう。小堂も立派である。

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歓喜院から光堂は1kmほどの距離だが、明治ルートでは発作(ほっさく)、亀成を経由するので3、4km余計に歩く。発作・最勝寺の札所には三十五番の札とご詠歌が掲げられている。

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