印西大師49 旧永治村にある観音寺・吉祥院
- 2023/03/05
- 05:16
まだ11時前だったけれど、お墓参り用の休憩所があったので延命寺でお昼にした。朝、駅で買った菓子パンである。これまでの6日間とは打って変わって暑い日で、テルモスに入れてきた氷水が冷たくておいしい。
すぐに空いてしまい、梶原大師のお接待でいただいたお茶をテルモスに移す。まだ氷が残っているので、歩く間に融けて冷たくなるだろう。
次の番外札所迎台は、同じ読みになる向台薬師堂がカンナ街道に戻る途中にある。こちらにも集会所の建物があり、お地蔵様や観音様の石仏が並ぶ。そして、お堂の前からかつての手賀沼に向かって景色が開ける。
ちょうど、何日か前の印旛沼にかけて開けた景色と一緒である。かつて、たびたび水害を起こし、昭和になって治水工事が進められたのも一緒である。違うのは、後ろに見えるのが成田市街か我孫子市街かだけである。
お四国でもそうだったが、何もないまっすぐな道はえてして距離が長い。すぐそこに見えても、なかなか着かないのである。カンナ街道もまさにそれで、延命寺から下りてまっすぐの道なのに、すぐ先の交差点まで10分歩いてようやくという感じである。
迎台から浦部観音寺まで十七丁(1.7km)という触れ込みながら、とても20分やそこらでは着かない。そして、ここで市境を越えて印西市に入る。浦部集落は、一番泉倉寺のある和泉集落と木下街道の反対側である。
市境といっても、このあたりは明治時代には永治村というひとつの村だった。どういういきさつか不明ながら村が分かれて、平塚は白井町から白井市になり、浦部や和泉、小倉、これから行く白幡は印西市になった。
十六番観音寺もたいへん広い境内である。カンナ街道から案内にしたがって集落に入ると、やがてみごとな石造りの山門が現れる。山門の正面に本堂、そして背後の小高い丘に石段が登っていて、上に見えるのが観音堂だろう。石段の下に仁王門がある。
四国十六番観音寺は街なかにあるお寺でちょっと狭いので、広さからいえば印西大師の方がずいぶん広い。そして、高低差があるので、本堂前からの眺めがすばらしい。
観音堂下の石段の左右に一つずつ小堂があって、右が印西大師十六番である。小堂の周囲は檀家の墓地が囲んでいるが、それでもまだ土地が余っている。
ご詠歌が掲げられているが、まだ墨は新しい。十六番のご詠歌「忘れずも導き給え観音寺」の上の句が筆記体で書かれている。このお寺には、武蔵板塀と呼ばれる石造卒塔婆など印西市指定の文化財があり、本堂前に詳しい説明板がある。
さて、次の白幡吉祥院が、印西大師八十八ヶ所の中でも見つけづらさでは最強のひとつであることは間違いない。
それほど広くない集落だし、地図もあるので油断していたら、微妙に起伏のある道で見通しが利かない。Googleに載っていなければ、もっと時間がかかったと思われる(「この先行き止まり」看板の奥にある)。
集落の一番奥に集会所と共同墓地があり、六十三番札所は集会所の前にある。集会所には「平成十五年度千葉県コミュニティ事業」とともに「白幡山吉祥院」の表札があるので、ここに吉祥寺というお寺があったのだろう。
明治ルートには「吉祥寺」とあるし、四国六十三番も吉祥寺である。額は2つ掲げられていて、1つは墨が薄くなっているがもう一つはまだ新しい。「…みな吉祥を望み祈れよ」のご詠歌が読める。

延命寺から迎台(向台薬師堂)を経由して、再び手賀沼沿いのカンナ街道に下りて行く。

十六番観音寺。お四国の十六番と比べても、境内の広さではこちらが大きい。

印西大師でもっとも見つけるのが困難な場所にある六十三番吉祥院。スマホで位置が示されなければ見つけられなかったかもしれない。
すぐに空いてしまい、梶原大師のお接待でいただいたお茶をテルモスに移す。まだ氷が残っているので、歩く間に融けて冷たくなるだろう。
次の番外札所迎台は、同じ読みになる向台薬師堂がカンナ街道に戻る途中にある。こちらにも集会所の建物があり、お地蔵様や観音様の石仏が並ぶ。そして、お堂の前からかつての手賀沼に向かって景色が開ける。
ちょうど、何日か前の印旛沼にかけて開けた景色と一緒である。かつて、たびたび水害を起こし、昭和になって治水工事が進められたのも一緒である。違うのは、後ろに見えるのが成田市街か我孫子市街かだけである。
お四国でもそうだったが、何もないまっすぐな道はえてして距離が長い。すぐそこに見えても、なかなか着かないのである。カンナ街道もまさにそれで、延命寺から下りてまっすぐの道なのに、すぐ先の交差点まで10分歩いてようやくという感じである。
迎台から浦部観音寺まで十七丁(1.7km)という触れ込みながら、とても20分やそこらでは着かない。そして、ここで市境を越えて印西市に入る。浦部集落は、一番泉倉寺のある和泉集落と木下街道の反対側である。
市境といっても、このあたりは明治時代には永治村というひとつの村だった。どういういきさつか不明ながら村が分かれて、平塚は白井町から白井市になり、浦部や和泉、小倉、これから行く白幡は印西市になった。
十六番観音寺もたいへん広い境内である。カンナ街道から案内にしたがって集落に入ると、やがてみごとな石造りの山門が現れる。山門の正面に本堂、そして背後の小高い丘に石段が登っていて、上に見えるのが観音堂だろう。石段の下に仁王門がある。
四国十六番観音寺は街なかにあるお寺でちょっと狭いので、広さからいえば印西大師の方がずいぶん広い。そして、高低差があるので、本堂前からの眺めがすばらしい。
観音堂下の石段の左右に一つずつ小堂があって、右が印西大師十六番である。小堂の周囲は檀家の墓地が囲んでいるが、それでもまだ土地が余っている。
ご詠歌が掲げられているが、まだ墨は新しい。十六番のご詠歌「忘れずも導き給え観音寺」の上の句が筆記体で書かれている。このお寺には、武蔵板塀と呼ばれる石造卒塔婆など印西市指定の文化財があり、本堂前に詳しい説明板がある。
さて、次の白幡吉祥院が、印西大師八十八ヶ所の中でも見つけづらさでは最強のひとつであることは間違いない。
それほど広くない集落だし、地図もあるので油断していたら、微妙に起伏のある道で見通しが利かない。Googleに載っていなければ、もっと時間がかかったと思われる(「この先行き止まり」看板の奥にある)。
集落の一番奥に集会所と共同墓地があり、六十三番札所は集会所の前にある。集会所には「平成十五年度千葉県コミュニティ事業」とともに「白幡山吉祥院」の表札があるので、ここに吉祥寺というお寺があったのだろう。
明治ルートには「吉祥寺」とあるし、四国六十三番も吉祥寺である。額は2つ掲げられていて、1つは墨が薄くなっているがもう一つはまだ新しい。「…みな吉祥を望み祈れよ」のご詠歌が読める。

延命寺から迎台(向台薬師堂)を経由して、再び手賀沼沿いのカンナ街道に下りて行く。

十六番観音寺。お四国の十六番と比べても、境内の広さではこちらが大きい。

印西大師でもっとも見つけるのが困難な場所にある六十三番吉祥院。スマホで位置が示されなければ見つけられなかったかもしれない。