印西大師47 明治ルート再考・現在の工業団地内が遍路道だった
- 2023/02/19
- 05:15
さて、白井市内について、明治ルートの経路表示は以下のようになっている。
なうち とうこういん 七丁
同 のなか 六丁六間
かわらこどう 十五丁半
ひらつかゑのきあふみち 二丁半十間
同 なかだへやくし
場所が明らかであるのは、東光院、河原子堂だけである。名内東光院から河原子堂まで、途中の札所である野中を経由しても明治ルートで十三丁六間、約1.4kmしかない。ところが、実際の距離は2km以上、Google Mapで2.3kmある。
1.4kmと2.3kmではかなり違う。江戸時代と場所が変わったのかもしれないが、単純な間違いだろうか。いずれにしても野中の番外札所は、東光院から河原子堂への途中にありそうだ。ということは、逆方向にある東葛大師六十一番札所の東海寺跡ではない可能性が大きい。
東光院・河原子堂間の粟島神社に、由緒ありげな大師堂がある。工業団地に入るすぐ前だ。ただし、東光院からの距離は七丁ない。七丁進むと、工業団地に入ってしまう。あるいは、野中の番外札所がここに移されたのだろうか。
粟島神社と大師堂にお参りして工業団地に入る。工業団地といいつつ、工場の横に梨畑が残っている。この工業団地はニュータウン計画によるものではないので、すべての土地が工業用地になったのではないようだ。
いくつかの工場・倉庫を抜け、河原子街道を進む。コンビニを2軒抜けると、再び農村の風景となる。JAの集荷場がある。神々廻(ししば)霊園・白井市民プールに入る道のあたりに、河原子集会所がある。
河原子堂はこの集会所の前にある。現在は周辺に数戸の農家があるだけだが、工業団地の住居表示が河原子なので、かつては大きな集落だっただろう。このあたりを南北に抜ける道が河原子街道である。
隣に天満宮があり、消防倉庫と何人か泊まれる集会所という印西の札所によくある立地に、見慣れた大きさの小堂がある。ご詠歌の扁額が掲げられているが、何と書いてあったのか読むことができない。
周囲に置かれている石には戒名が刻まれている。残念ながら崩れて横倒しになっているものもある。平成の年号が記されている「南無大師遍照金剛」の石碑だけが新しい。
お参りをして、平塚集落のある北東方向に進む。坂を登ると工業団地から伸びる太い道路に出る。この太い道はやがて1車線になって阿夫利神社の鳥居まで続くが、平塚集落はそこまで行かない。
「ゑのきあふみち」は榎大三叉と漢字を振られているが、太い道路から平塚集落に向かう三叉路付近に庚申塔があり、その奥にもう一つ三叉路がある。どちらかが、明治ルートの番外札所であったと思われる。
このあたりは工業団地でかなり様相が変わってしまったが、奥の三叉路にそういう雰囲気がある。後方に地域の共同墓地があり、古い石碑がいくつかある。墓地の中には、青面金剛が邪鬼を退治している享保時代の石像がある。
さらに中台薬師まで二丁半十間は、中台集会所への300mとぴったりである。古い庚申塔や二十三夜塔、古い墓碑なども散在しており、かつては集落の信仰の中心だったのではないかと思われる場所である。

東光院近くの粟島神社の大師堂は由緒ありそうであるが、距離が合わない。明治ルート記載の野中は東光院から七丁で、工業団地に入ってしまう。

番外札所河原子堂。後方が集会所で、すぐ前に消防倉庫もある。前に建つのは、白井小廻り大師の回向柱と思われる。

平塚集落に向かう道には2つ三叉路があるが、集落に近いこちらに「ゑのきあふみち」の札所があったのではないか。墓地の中に、享保年間の古い青面金剛石像がある。
なうち とうこういん 七丁
同 のなか 六丁六間
かわらこどう 十五丁半
ひらつかゑのきあふみち 二丁半十間
同 なかだへやくし
場所が明らかであるのは、東光院、河原子堂だけである。名内東光院から河原子堂まで、途中の札所である野中を経由しても明治ルートで十三丁六間、約1.4kmしかない。ところが、実際の距離は2km以上、Google Mapで2.3kmある。
1.4kmと2.3kmではかなり違う。江戸時代と場所が変わったのかもしれないが、単純な間違いだろうか。いずれにしても野中の番外札所は、東光院から河原子堂への途中にありそうだ。ということは、逆方向にある東葛大師六十一番札所の東海寺跡ではない可能性が大きい。
東光院・河原子堂間の粟島神社に、由緒ありげな大師堂がある。工業団地に入るすぐ前だ。ただし、東光院からの距離は七丁ない。七丁進むと、工業団地に入ってしまう。あるいは、野中の番外札所がここに移されたのだろうか。
粟島神社と大師堂にお参りして工業団地に入る。工業団地といいつつ、工場の横に梨畑が残っている。この工業団地はニュータウン計画によるものではないので、すべての土地が工業用地になったのではないようだ。
いくつかの工場・倉庫を抜け、河原子街道を進む。コンビニを2軒抜けると、再び農村の風景となる。JAの集荷場がある。神々廻(ししば)霊園・白井市民プールに入る道のあたりに、河原子集会所がある。
河原子堂はこの集会所の前にある。現在は周辺に数戸の農家があるだけだが、工業団地の住居表示が河原子なので、かつては大きな集落だっただろう。このあたりを南北に抜ける道が河原子街道である。
隣に天満宮があり、消防倉庫と何人か泊まれる集会所という印西の札所によくある立地に、見慣れた大きさの小堂がある。ご詠歌の扁額が掲げられているが、何と書いてあったのか読むことができない。
周囲に置かれている石には戒名が刻まれている。残念ながら崩れて横倒しになっているものもある。平成の年号が記されている「南無大師遍照金剛」の石碑だけが新しい。
お参りをして、平塚集落のある北東方向に進む。坂を登ると工業団地から伸びる太い道路に出る。この太い道はやがて1車線になって阿夫利神社の鳥居まで続くが、平塚集落はそこまで行かない。
「ゑのきあふみち」は榎大三叉と漢字を振られているが、太い道路から平塚集落に向かう三叉路付近に庚申塔があり、その奥にもう一つ三叉路がある。どちらかが、明治ルートの番外札所であったと思われる。
このあたりは工業団地でかなり様相が変わってしまったが、奥の三叉路にそういう雰囲気がある。後方に地域の共同墓地があり、古い石碑がいくつかある。墓地の中には、青面金剛が邪鬼を退治している享保時代の石像がある。
さらに中台薬師まで二丁半十間は、中台集会所への300mとぴったりである。古い庚申塔や二十三夜塔、古い墓碑なども散在しており、かつては集落の信仰の中心だったのではないかと思われる場所である。

東光院近くの粟島神社の大師堂は由緒ありそうであるが、距離が合わない。明治ルート記載の野中は東光院から七丁で、工業団地に入ってしまう。

番外札所河原子堂。後方が集会所で、すぐ前に消防倉庫もある。前に建つのは、白井小廻り大師の回向柱と思われる。

平塚集落に向かう道には2つ三叉路があるが、集落に近いこちらに「ゑのきあふみち」の札所があったのではないか。墓地の中に、享保年間の古い青面金剛石像がある。