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脱脂粉乳 ~半世紀前の話39

3つ歳下の家の奥さんによると、埼玉では給食に脱脂粉乳は出ていなかったそうであるが、私の育った千葉県では小学校の給食にアルマイトのポットに入った脱脂粉乳が必ずついていた。

私自身はそれほど苦にならなかったが、クラスに何人か「まずくて飲めない」と隠れて捨てている子がいた。給食は残さず全部食べることが強制されていた時代である。

いまにしてみると、健康にいいことは間違いないし、牛乳を消化できない子は一定割合で必ずいるのだから親切でもあるのだが、当時はなんでわざわざまずいものを出すんだろうと思っていた。

よく知られるように脱脂粉乳はもともと米国からの支援物資で、敗戦で荒廃した日本を援助するための人道支援であった。もちろん、米国のマーケットであまり売れない商品を消化する側面もあっただろう。

ララ(Licensed Agencies for Relief in Asia)と呼ばれるこの人道支援は1952年(昭和27年)まで行われ、その後は国内で食糧生産が間に合ったのだが、なぜか私の小学校時代も脱脂粉乳は残っていた。すでにオリンピック後である。

当時は子供の数が一番多いし、学校給食は学校ごとに給食室で作られていた時代だから、牛乳を学校ごとに輸送する手段や、保存する設備がなかったのかもしれない。何しろ、その頃牛乳は毎朝宅配されるのがデフォルトであった。

そして、夏でも脱脂粉乳はお湯で溶くので熱いのである。もちろん教室に持ってくる頃には熱湯という訳ではないが、むっとする温度なので嫌いな人にはたまらない匂いだっただろう。

いまもそうだが脱脂粉乳(スキムミルク)を好きと言う人はあまり多くないから、溶かしてコーヒー牛乳にできる粉が付いている時はうれしかった。溶いてしまえば、牛乳も脱脂粉乳もたいして変わらない。

コーヒー牛乳とフルーツ牛乳は当時清涼飲料水的に飲まれていた。お風呂屋さんにあったのもたいていそれで、コーラとかファンタはまだなかった。なんたって自販機が数少なかったのである。

小学校の終わり頃には脱脂粉乳から180ccの牛乳になった。まだ紙パックはなく、すべて牛乳瓶の時代だった。だから、1クラス分集まると結構重い。男子生徒が2人がかりで教室まで運んだものである。

p.s. 「半世紀前の話」、バックナンバーはこちら


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当時の食器はもっと黄色かったし、スプーンの先は割れていた。(出典:(公財)学校給食研究改善協会)

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Author:taipa
 

7年前にリタイア、気ままな年金生活を送っています。

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