印西大師38 6日目は船尾から白井に向かう
- 2022/12/18
- 05:15
5日目と6日目は休みを入れずにお参りできた。当初6日間で計画したのだが、歩いてみたらちょっと無理なので7日間に伸ばした。現在の巡行スケジュールをよく見てみると、歩きではなく自動車で移動しているらしい。
だから、6日目は白井のどこまで歩けるかである。スタートは船尾の東光院。船尾神々廻街道を神宮寺まで、そこから神崎川に沿って白井駅近くにある仏法寺に向かう。そこから先は、ルートがよく分からない。白井市内の土地勘がほとんどないのである。
国道16号線より北で行ったことがあるのは、工業団地の中にある白井の湯と、手賀沼近くにある白井聖地公園くらい。しかも白井の湯は車でお風呂に行っただけである。
地図を見る限り、白井の湯まで行ければ最終日は余裕を持って光堂まで着けそうだが、白井の湯で奥さんに迎えに来てもらのは難しい。道が混み入っているのである。来てもらえるのは白井市役所。白井図書館にはよく来るので、奥さんもよく知っている。
だから、白井の湯3時27分発の白井市コミュニティバスで市役所に戻ることになる。幸い、想定される経路はコミュニティバスのルートからそれほど離れていない。
東光院まで奥さんに送ってもらい、お墓にご挨拶して8時15分出発。船尾の坂を下って行く。次の札所である戸神薬師堂は前に来たことがあるが、北総花の丘公園から伸びる新しい道路ができて様子が変わっている。ちょっと探した。
目指す薬師堂は、小高い丘の上にある戸神宗像神社の麓にある。前に来た時、ニュータウンから宗像神社に出て、麓に集落があるのでちょっとびっくりしたのだった。宗像神社のある丘は、記憶していたよりも遠かった。
坂道の中ほどの狭い一画に、集会所、消防倉庫、札所と多くの石碑、古い石仏などが集まっている。小堂は二つあり、右側に五十五番のプレートが貼ってある。いずれの小堂前にも、回向柱が立つ。墨は薄いが「小廻大師」と読むことができる。
この回向柱は、旧印旛村のお寺では見かけなかったのだが、前日の船尾からこの日の白井にかけて目立つ場所に立っている。半面、旧本埜村でよく見る小廻大師の石碑はあまり見ない。おそらく、別の小廻大師講なのだろう。
ご詠歌の額がかかっているが、例によって墨が薄くなって読めない。四国五十五番は三嶋神社別宮の南光坊なので、いずれにしてもあまり関連はなさそうである。
明治ルートでは次に番外札所大師堂の名前がある。該当する場所には現在蔵王院という真言宗の寺院があるが、ご住職の住居と一体化していて札所の小堂は見えない。
五十一番安養寺は次の武西(むざい)集落にある。戸神・武西は北総線に沿った千葉ニュータウンの地名であるが、もちろんもとはこちらの農村集落の名前であった。
安養寺は広い境内に児童遊園があり、「安養寺」の額が掲げられた大きな本堂を有する。本堂左の道路沿いに2つの小堂があり、その左が五十一番札所である。
ご詠歌の字はやはり読めないが、おそらく「西方をよそとは見まじ安養の…」と書かれているはずである。やはり、小堂前に小廻大師の回向柱が立っている。
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5日目の朝、東光院を出発して、船尾・神々廻街道を北上する。中央の丘に宗像神社があり、麓に札所の戸神薬師堂がある。

五十五番戸神薬師堂。左の階段を登ると宗像神社。薬師堂は現在は右の建物(集会所)になっているようだ。

五十一番安養寺。安養寺は四国五十一番石手寺の古い名前で、このことから五十一番となったと思われる。
だから、6日目は白井のどこまで歩けるかである。スタートは船尾の東光院。船尾神々廻街道を神宮寺まで、そこから神崎川に沿って白井駅近くにある仏法寺に向かう。そこから先は、ルートがよく分からない。白井市内の土地勘がほとんどないのである。
国道16号線より北で行ったことがあるのは、工業団地の中にある白井の湯と、手賀沼近くにある白井聖地公園くらい。しかも白井の湯は車でお風呂に行っただけである。
地図を見る限り、白井の湯まで行ければ最終日は余裕を持って光堂まで着けそうだが、白井の湯で奥さんに迎えに来てもらのは難しい。道が混み入っているのである。来てもらえるのは白井市役所。白井図書館にはよく来るので、奥さんもよく知っている。
だから、白井の湯3時27分発の白井市コミュニティバスで市役所に戻ることになる。幸い、想定される経路はコミュニティバスのルートからそれほど離れていない。
東光院まで奥さんに送ってもらい、お墓にご挨拶して8時15分出発。船尾の坂を下って行く。次の札所である戸神薬師堂は前に来たことがあるが、北総花の丘公園から伸びる新しい道路ができて様子が変わっている。ちょっと探した。
目指す薬師堂は、小高い丘の上にある戸神宗像神社の麓にある。前に来た時、ニュータウンから宗像神社に出て、麓に集落があるのでちょっとびっくりしたのだった。宗像神社のある丘は、記憶していたよりも遠かった。
坂道の中ほどの狭い一画に、集会所、消防倉庫、札所と多くの石碑、古い石仏などが集まっている。小堂は二つあり、右側に五十五番のプレートが貼ってある。いずれの小堂前にも、回向柱が立つ。墨は薄いが「小廻大師」と読むことができる。
この回向柱は、旧印旛村のお寺では見かけなかったのだが、前日の船尾からこの日の白井にかけて目立つ場所に立っている。半面、旧本埜村でよく見る小廻大師の石碑はあまり見ない。おそらく、別の小廻大師講なのだろう。
ご詠歌の額がかかっているが、例によって墨が薄くなって読めない。四国五十五番は三嶋神社別宮の南光坊なので、いずれにしてもあまり関連はなさそうである。
明治ルートでは次に番外札所大師堂の名前がある。該当する場所には現在蔵王院という真言宗の寺院があるが、ご住職の住居と一体化していて札所の小堂は見えない。
五十一番安養寺は次の武西(むざい)集落にある。戸神・武西は北総線に沿った千葉ニュータウンの地名であるが、もちろんもとはこちらの農村集落の名前であった。
安養寺は広い境内に児童遊園があり、「安養寺」の額が掲げられた大きな本堂を有する。本堂左の道路沿いに2つの小堂があり、その左が五十一番札所である。
ご詠歌の字はやはり読めないが、おそらく「西方をよそとは見まじ安養の…」と書かれているはずである。やはり、小堂前に小廻大師の回向柱が立っている。
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5日目の朝、東光院を出発して、船尾・神々廻街道を北上する。中央の丘に宗像神社があり、麓に札所の戸神薬師堂がある。

五十五番戸神薬師堂。左の階段を登ると宗像神社。薬師堂は現在は右の建物(集会所)になっているようだ。

五十一番安養寺。安養寺は四国五十一番石手寺の古い名前で、このことから五十一番となったと思われる。