印西大師33 総武カントリー外周を回って草深(そうふけ)へ
- 2022/11/13
- 05:15
吉田集落から草深(そうふけ)まで、普通に歩くと1時間以上かかる。もっとも短縮できるのは総武カントリーのコース内を通っている公道を横切る経路だが、最近通っていない。通行禁止になっているかもしれない。
水田沿いの低地を黙々と歩く。土地の人以外が通ることはほとんどない道である。ここは、江戸時代に吉田集落・草深集落の領地争いがあり、総武カントリーの高台は草深が築いた土塁の跡らしい。
聞いた話では、総武カントリーは開設当初それほど資金に余裕があった訳ではなく、かなりの土地を借地で手当てした。昭和20~30年代なので、それこそ二束三文の値段だったという。借地料は相場で値上がりしたから、売るよりも貸した方がよかったという話になっているらしい。
30分ほど歩いて総武カントリーのコースに出る。トーナメントの時にしか使わないバックティーとフェアウェイの間だったように覚えているのだが、ティーグラウンドにはパーティーが待機していた。人が通るとブザーが鳴って通り抜けるのを待つことになっているのだ。お待たせしても申し訳ないので、小走りにコースを横切る。
さて、次の札所である丸山観音堂まで、吉田集落から直線距離で4km、実際に歩くのは6~7kmになる。現在の大師巡行では、明治ルートには載っていない専徳寺と生大師にお参りしているので、さらに遠回りになる。
専徳寺は総武カントリーを抜けサバゲーと障害者福祉施設いんば学舎の先にある。Googleには載っているのだが、電子国土に「卍」マークは付いていない。
共同墓地と古い石碑、灯篭や十三重塔が並ぶ中に番外札所の小堂があり、結構新しい平屋建ての建物がある。この建物がおそらく専徳寺なのだろう。案内板がなければ入口にあるお宅の墓地と思うくらいである。由緒はよく分からない。
もう一つの生大師は、専徳寺から水田に下ってまた登って、千葉ニュータウン霊園のある大生寺の施設である。宗派は真言宗。大きな大師堂があり、「南無大師遍照金剛」の幟が林立している。
「なまだいし」って何だろう。曰くありげだなあと思っていたのだけれど、WEB「かまがや散歩」によると、明治時代に近在で知られた生大師弘海という行者さんが開いた寺らしい。だから、古い地図には載っていない。
専徳寺・生大師をお参りして、いよいよ七十九番丸山観音堂である。吉田集落を出てから、結局2時間かかった。札所の横にある大師堂には、地元有志が奉納した八十八体の大師像が並ぶ。
この草深という地域は、江戸時代に開かれた新田で、その前は幕府の牧場・印西牧であった。それで、ニュータウンに「印西牧の原」という駅がある。観音堂は札所・大師堂と背中合わせの位置にあり、境内には墓地や記念碑が並ぶ。
ここでお参りしていて、おもしろいものを見つけた。大師堂の格子のところにプリントのようなものが置いてあり、石が乗っている。何だろうと思って読んでみると、令和4年の巡礼についてのお知らせであった。
「令和4年の結願寺は広福寺です。」と書いてある。予定通り開催に至ったのかどうか確認する方法はないけれど、いかにもひと気のなかった広福寺の様子を思い出すと、巡礼に付き添ってお参りして回っているのかもしれないと思った。

吉田集落を抜けて草深までは、泉カントリー、総武カントリーの外周を回る昔ながらの水田風景。

番外生大師は、千葉ニュータウン霊園にある。明治ルートにはないが、現在の巡行ではお参りしている。大師堂は近年建てられた立派なものだ。真言宗大生寺の施設。

七十九番丸山観音堂は、明治以降に天王堂から札所が遷った。右のお堂の中に、江戸時代末に地元有志が寄贈した大師像八十八体が鎮座する。
水田沿いの低地を黙々と歩く。土地の人以外が通ることはほとんどない道である。ここは、江戸時代に吉田集落・草深集落の領地争いがあり、総武カントリーの高台は草深が築いた土塁の跡らしい。
聞いた話では、総武カントリーは開設当初それほど資金に余裕があった訳ではなく、かなりの土地を借地で手当てした。昭和20~30年代なので、それこそ二束三文の値段だったという。借地料は相場で値上がりしたから、売るよりも貸した方がよかったという話になっているらしい。
30分ほど歩いて総武カントリーのコースに出る。トーナメントの時にしか使わないバックティーとフェアウェイの間だったように覚えているのだが、ティーグラウンドにはパーティーが待機していた。人が通るとブザーが鳴って通り抜けるのを待つことになっているのだ。お待たせしても申し訳ないので、小走りにコースを横切る。
さて、次の札所である丸山観音堂まで、吉田集落から直線距離で4km、実際に歩くのは6~7kmになる。現在の大師巡行では、明治ルートには載っていない専徳寺と生大師にお参りしているので、さらに遠回りになる。
専徳寺は総武カントリーを抜けサバゲーと障害者福祉施設いんば学舎の先にある。Googleには載っているのだが、電子国土に「卍」マークは付いていない。
共同墓地と古い石碑、灯篭や十三重塔が並ぶ中に番外札所の小堂があり、結構新しい平屋建ての建物がある。この建物がおそらく専徳寺なのだろう。案内板がなければ入口にあるお宅の墓地と思うくらいである。由緒はよく分からない。
もう一つの生大師は、専徳寺から水田に下ってまた登って、千葉ニュータウン霊園のある大生寺の施設である。宗派は真言宗。大きな大師堂があり、「南無大師遍照金剛」の幟が林立している。
「なまだいし」って何だろう。曰くありげだなあと思っていたのだけれど、WEB「かまがや散歩」によると、明治時代に近在で知られた生大師弘海という行者さんが開いた寺らしい。だから、古い地図には載っていない。
専徳寺・生大師をお参りして、いよいよ七十九番丸山観音堂である。吉田集落を出てから、結局2時間かかった。札所の横にある大師堂には、地元有志が奉納した八十八体の大師像が並ぶ。
この草深という地域は、江戸時代に開かれた新田で、その前は幕府の牧場・印西牧であった。それで、ニュータウンに「印西牧の原」という駅がある。観音堂は札所・大師堂と背中合わせの位置にあり、境内には墓地や記念碑が並ぶ。
ここでお参りしていて、おもしろいものを見つけた。大師堂の格子のところにプリントのようなものが置いてあり、石が乗っている。何だろうと思って読んでみると、令和4年の巡礼についてのお知らせであった。
「令和4年の結願寺は広福寺です。」と書いてある。予定通り開催に至ったのかどうか確認する方法はないけれど、いかにもひと気のなかった広福寺の様子を思い出すと、巡礼に付き添ってお参りして回っているのかもしれないと思った。

吉田集落を抜けて草深までは、泉カントリー、総武カントリーの外周を回る昔ながらの水田風景。

番外生大師は、千葉ニュータウン霊園にある。明治ルートにはないが、現在の巡行ではお参りしている。大師堂は近年建てられた立派なものだ。真言宗大生寺の施設。

七十九番丸山観音堂は、明治以降に天王堂から札所が遷った。右のお堂の中に、江戸時代末に地元有志が寄贈した大師像八十八体が鎮座する。