印西大師32 吉田集落の札所
- 2022/11/06
- 05:15
さて、初日に天王堂を回った時に、明治ルートでは逆側からとんでもなく遠回りしてここにお参りしたと書いたが、実はそれは、岩不動から丸山観音堂(大師堂)、天王堂という経路なのである。
明治ルートの距離表示は、岩不動から丸山観音堂が二十二丁、丸山観音堂から天王堂まで同じく二十二丁とあるけれども、これはどう考えてもおかしい。
というのは、丸山観音堂(旧草深小近く)・天王堂間はGoogleで調べても2.1kmで二十二丁なのだが、岩不動(印旛西部公園)から丸山観音堂までは5.2km、直線距離でも4km近くあり、二十二丁の倍はあるのである。
明治時代には泉カントリーも総武カントリーもないので直線に近い距離がとれたのだとしても、2kmと4kmでは違いすぎる。どこかの段階で、二十(廿)と四十(縦棒4本)を写し間違えたのかもしれない。それに、岩戸から草深をお参りして吉田という順路は、逆戻りもいいところである。
巡行は近道をとればいいものでもないが、それにしても非効率だし、今日の巡行でも明治ルートは採っていない。歩き遍路であった平成はじめの経路も、造谷から丸山観音堂を経て吉田集落で、天王堂は結縁寺の後である。
それも勘案して、今回のコースは岩戸、吉田、草深の順路とし、天王堂は初日にお参りすることにした。岩不動まで岩戸集落のお参りを終え、吉田集落まで歩く。西部公園から水田のある低地まで坂を下り、次の坂を登ると吉田集落である。
県道沿いを歩いただけだと分からないが、ずいぶん奥深くまで開けた集落である。印西市の次期清掃工場はこの地区にできる予定である。泉カントリーの近く、いまは畑とか林、雑種地になっているあたりである。
七十二番萬福寺は、その奥まった場所に突如として登場する鉄筋コンクリートの立派な建物である。本堂の他に従来様式の古いお堂や、石造りの灯篭や十三重塔がある。札所である大師堂は、小堂ではあるが立派な造りである。宗旨は真言宗。
ご住職のお住まいも棟続きのようで、何台かの車が駐まっていた。植栽も手が込んでいて鮮やかである。門のところには庚申塔が整然と並べられ、いろいろなところに気を使っていることが分かる。
門の横にも、庭の奥にもしだれ桜が満開で、一番いい季節に来たのかもしれない。数珠と経本を手に光明真言を唱える。「南無大師遍照金剛」も、真言宗なので遠慮なく口にすることができる。
一方、集落でもう一つのナンバー札所である慈眼寺は、かつては寺があったのだろうが、今は三十四番札所と墓地、いくつかの古い石碑を残すのみである。
伝えられる宗旨は曹洞宗。札所の前に何十人か収容できる集会所風の建物があり、かつての本堂という。明治ルートに載った時点では三十四番の他に番外のお堂もあったようだ。
吉田集落には、この他に2つの番外札所がある。萬福寺の近くにある共同墓地に一つ、集落入口にある宗像神社に一つお堂があるので、それぞれかしの台、東堂の番外札所かと思われる。
宗像神社はこの地域の鎮守だけあって境内は広い。そして、客神らしいお堂がいくつもある。その中の一つが、おそらく番外札所と思われる。

七十二番萬福寺は、吉田集落の奥まった場所にあるにもかかわらず、鉄筋コンクリートの立派な本堂でびっくりする。門前には江戸時代からの庚申塔が並ぶ。

萬福寺の大師堂(札所)。こちらのお寺は、庭の植栽がたいへんよく手入れされている。

三十四番慈眼寺は萬福寺のすぐ近くだが、すでに寺の施設はなく札所だけが寂しく建つ。古いお籠り堂も、電気が通じていないようだった。
明治ルートの距離表示は、岩不動から丸山観音堂が二十二丁、丸山観音堂から天王堂まで同じく二十二丁とあるけれども、これはどう考えてもおかしい。
というのは、丸山観音堂(旧草深小近く)・天王堂間はGoogleで調べても2.1kmで二十二丁なのだが、岩不動(印旛西部公園)から丸山観音堂までは5.2km、直線距離でも4km近くあり、二十二丁の倍はあるのである。
明治時代には泉カントリーも総武カントリーもないので直線に近い距離がとれたのだとしても、2kmと4kmでは違いすぎる。どこかの段階で、二十(廿)と四十(縦棒4本)を写し間違えたのかもしれない。それに、岩戸から草深をお参りして吉田という順路は、逆戻りもいいところである。
巡行は近道をとればいいものでもないが、それにしても非効率だし、今日の巡行でも明治ルートは採っていない。歩き遍路であった平成はじめの経路も、造谷から丸山観音堂を経て吉田集落で、天王堂は結縁寺の後である。
それも勘案して、今回のコースは岩戸、吉田、草深の順路とし、天王堂は初日にお参りすることにした。岩不動まで岩戸集落のお参りを終え、吉田集落まで歩く。西部公園から水田のある低地まで坂を下り、次の坂を登ると吉田集落である。
県道沿いを歩いただけだと分からないが、ずいぶん奥深くまで開けた集落である。印西市の次期清掃工場はこの地区にできる予定である。泉カントリーの近く、いまは畑とか林、雑種地になっているあたりである。
七十二番萬福寺は、その奥まった場所に突如として登場する鉄筋コンクリートの立派な建物である。本堂の他に従来様式の古いお堂や、石造りの灯篭や十三重塔がある。札所である大師堂は、小堂ではあるが立派な造りである。宗旨は真言宗。
ご住職のお住まいも棟続きのようで、何台かの車が駐まっていた。植栽も手が込んでいて鮮やかである。門のところには庚申塔が整然と並べられ、いろいろなところに気を使っていることが分かる。
門の横にも、庭の奥にもしだれ桜が満開で、一番いい季節に来たのかもしれない。数珠と経本を手に光明真言を唱える。「南無大師遍照金剛」も、真言宗なので遠慮なく口にすることができる。
一方、集落でもう一つのナンバー札所である慈眼寺は、かつては寺があったのだろうが、今は三十四番札所と墓地、いくつかの古い石碑を残すのみである。
伝えられる宗旨は曹洞宗。札所の前に何十人か収容できる集会所風の建物があり、かつての本堂という。明治ルートに載った時点では三十四番の他に番外のお堂もあったようだ。
吉田集落には、この他に2つの番外札所がある。萬福寺の近くにある共同墓地に一つ、集落入口にある宗像神社に一つお堂があるので、それぞれかしの台、東堂の番外札所かと思われる。
宗像神社はこの地域の鎮守だけあって境内は広い。そして、客神らしいお堂がいくつもある。その中の一つが、おそらく番外札所と思われる。

七十二番萬福寺は、吉田集落の奥まった場所にあるにもかかわらず、鉄筋コンクリートの立派な本堂でびっくりする。門前には江戸時代からの庚申塔が並ぶ。

萬福寺の大師堂(札所)。こちらのお寺は、庭の植栽がたいへんよく手入れされている。

三十四番慈眼寺は萬福寺のすぐ近くだが、すでに寺の施設はなく札所だけが寂しく建つ。古いお籠り堂も、電気が通じていないようだった。